羚英ヶ随想日記 neo

好奇心という名のアンテナは常に作動中 / PC版推奨

■みちのく岩手の旅 その八■

水沢に戻り、まだ時間が早かったので水沢の駅周辺を少し散策してから宿に入り、その日は前日の超(!)寝不足を少しでも回復するために、早々と休むことにしました。 


翌朝はホテルで朝食をとり、荷物を整理して早めにチェックアウトをし、のんびりと一関まで昨日来た道を戻ることにしました。
水沢の街はただ宿泊だけでしたが、江刺と同様、城下町の風情が今も残る素敵な町並みで、ゆっくり出来なかったのが残念です。


途中に平泉で車を一時停車し、前の日に運べなかった 『伝武蔵坊弁慶の墓』 に寄りました。

武蔵坊弁慶之墓

中尊寺入り口の、国道のすぐ脇の小さい中州のような場所に、このお墓はひっそりとあります。

実在の人物であったのかは疑わしいと思われたこともあったそうですが、弁慶の名は吾妻鏡の中にも記述があり、その生涯についてはほとんど判らないものの、その名前の郎党がいたということは確かなようです。

常々私は、たとえ物語の中の人の作り出した人物であっても、そこに魂が宿るように思うのです。非業の最後を遂げたその思いが人々の心に生き続ける限り、その魂が安らかにあれと望まずにはいられません。

朝のまだ人の姿も少ない弁慶のお墓で合掌して、今度こそ本当に、平泉をあとにしました。



平泉から達谷毘沙門堂の前を通り、一関の道の駅「厳美渓に向かいます。
モチロン、新鮮野菜などなど、前日に買えなかったものを購入するためです。
キュウリ、ナス、南蛮(青唐辛子)、長ネギなどの野菜、それに南蛮味噌を2パックほど。
何より新鮮で嬉しいです!南蛮味噌はいろいろな味のものがありましたが、去年娘がお土産で頂いてきた手作りのものに味がそっくりなものを見つけ、迷わずこれだ!っと選んでしまいました。
温かい白いご飯にのせて食べるのが待ち遠しいですっ

悪くならないように保冷バックに詰めて、途中のコンビにで氷を購入して(笑)、大事に大事に川崎まで持って帰りました。


一関から東北自動車道に乗り上り線を行きましたが、道の渋滞はありません。
ちょっと拍子抜けしましたが、こんな幸いなことはない訳で(笑)、これなら途中下車出来ると判断して、娘が1度行ってみたいとという日本三景のひとつ 松島 に寄ることにしました。


東北道を降りてからが渋滞で、現地に着くまで結構な時間がかかり、おまけに駐車場が満車の表示ばかり。
かろうじて少し遠い駐車場に車を停めるられました。
午前中だったこともあり太陽の位置が逆光気味だったのも手伝って、この日の松島もむっとする湿気で白く霞んで、島々があまり綺麗に見えません。
松島には小さい頃から何度も訪れていますが、いつも夏なのでこんな感じばかりです。
楽しみにしていた娘も、あえて言葉がなく…(汗)
とりあえず、斎太郎節でも謳われる 松島青龍山瑞巌円福禅寺 いわゆる 『瑞厳寺』 を訪れることにしました。

お盆の観光シーズンということもあるのでしょうが、相変わらずここも観光客でいっぱい!
瑞厳寺の門のところには、ボランティアガイドの方々が声掛けをしています。
私達も時間に余裕があったらお願いしているところでしたが、諦めざるをえません。
まずは参道を行かず、入ってすぐ右側の岩盤にいくつも彫られた、修行僧の修行と生活の場であった洞窟群とそれに平行して立てられている西国三十三ヶ所の石像を見ながら進みます。


洞窟と石像

この洞窟の床の一角に1段高くなっている場所があり、ここは修行僧の寝床であったといいます。
何だか、印度・アジャンター石窟寺院の遺跡を彷彿とさせます。

岩盤には小さい岩窟仏もいくつも彫られていて、それがさらに厳かな雰囲気を醸し出し、行く筋も下がるツタの蔓がそれらを引き立たせるアクセントにもなっています。



中門

立派な杉が立ち並ぶ参道から本堂への門。



御成門

中門の向かって左にあります。
もちろん開かずの門です。





国宝 回廊


国宝の本堂(方丈)の向かって右にある回廊。立ち入りは出来ません。
見事な彫刻が施されている欄干を支える支柱の部分。
この回廊から先(右方向)に続く 庫裡 は今でも実際に使われているそうです。



国宝 庫裡

1度本堂から中門を出て、別の門から入ったところにあります。

暫くすると鐘の音が聞こえてきました。
荘厳な響きです。

画像にはほとんど写っていませんが、右の杉の下は岩盤で、その中をくり抜いて建物が建てられていました。


平安の初め、天長5年(828年)に開創され、延暦寺に比肩すべきと天台宗円福寺と称され、奥州藤原氏の庇護を受けました。藤原氏滅亡後は鎌倉幕府が替わり、北条政子仏舎利を寄進し夫・頼朝の菩提を弔わせました。
鎌倉時代中期、開創から約400年を経て、天台宗円福寺は歴史を閉じました。
鎌倉中期の13世紀半ば開山され、建長寺派禅宗である円福寺と改称されました。この寺は幕府の庇護の下大いに栄え、室町時代には(禅宗の寺格を表す)五山十刹に次ぐ諸山の高位に位置づけられましたが、戦国時代には寺勢も衰え妙心寺派に属しました。
慶長9年(1604年)仙台藩主・伊達政宗はこの寺の造営に心血を注ぎ、5年の歳月を費やして現在の大伽藍を完成させました。
明治維新後の廃仏毀釈の受難な時代を経て、明治9年天皇の行在所となり、内帑金千円が下賜され、復興の契機となりました。



本堂は禅宗寺らしく落ち着いた外観ですが、内部は極彩色の彫刻や襖絵など、安土桃山時代の粋を集めた煌びやかな造りで、書院を加えた部屋の数々はお寺というイメージよりも、城館のそれといった趣があります。
豪華な藩主御成りの間である 上段の間 には 上々段の間(天皇の座する間) も設けられ、ぐるりと巡る内廊下 廻廊 は、中央から部屋側が一段高い造りの上縁(床が二重構造?)になっていて、「下からの攻撃をより防ぐため」といった説明がこぼれ聞こえました。

伊達藩の“軍事要塞”とも云われたこの瑞厳寺は、斎太郎節(さいたらぶし) (大漁唄い込み)に謡われるように「前は海、後ろ山」で、まさに自然の要塞。
芭蕉の門人・曾良はこのお寺のことを随分と念入りに見て回った(調べていた?)らしく、そのことも芭蕉(たち)が江戸幕府の隠密であったのではないかと言われる所以なのだそうです。

「松島の朧月を見ようと思うんだー」とか「松島を1度は見てみたいという気持ちがおさまらないんだよー」と知人に文の中でしたためていた、松島に対しての憧憬の念が止まなかった芭蕉ですが、実際訪れても一泊だけの滞在で、その旅記は記していても俳句は一句も詠まなかったんですね。
あまりの絶景を目にして思うような句が浮かばなかったとか、中国の文人の内にある、“絶景の前では言葉は要らず”の精神であったのではなどの見解もあるそうです。
曾良は一句詠んでいます。

 松島や 鶴に身をかれ ほとゝぎす  曾良


松島の中心部から少し車を走らせると、海岸沿いの道からは時々海と点在する島々が見えます。
何かの養殖用に棒が幾本も立てられています。
こちらの風情の方がいいなぁと思ったのは、さきほどのあまりの人の数に酔ってしまったからでしょうか。

東北道に戻り、さて車の流れも良いことだし、次はどこに寄りましょうか?